雁木を前に農船と思われる木造船が浮かんでいた。
近くの赤穂根島や、津波島へ渡って耕作する出作に使われていたのだろうか。
島の土地は限られている。島内を開拓し尽くすと近くの島へ渡り、そこを耕作地として開いた。
島嶼部の人口が多かった頃、こうした出作で瀬戸内海の島々は開かれていったという。
港から農船が減り、かつての耕作地は元の姿へ戻ってゆくのだろう。
たくさんの船が島を往来していた頃の風景は、もう記録でしか見ることができない。
NAWATA
◎ 島プロジェクト → https://www.shimaproject.jp/
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たくさんの船が島を往来していた頃の風景は、もう記録でしか見るこ
とができない。
本当にそうですね。こんにちは~!いつも興味深く拝見しております。
私が小学校3年生位までは我が家にも農船があり、三角島や大崎上島の畑に行っていました。薄っすらと桃畑があったと記憶しています。子供でしたので草取り程度のお手伝いをしていましたが、それに飽きると子供たちは海で貝(ニーナ)取りにいき、バケツ一杯に採取していました。もの心ついた頃にはいつの間にか三角島と大崎上島の畑は売却、その時に農船も人手に渡っていました。当時その農船を見て「うちの農船だ~」と、小さいながらもその船に愛着があったのでしょうね。何となく寂しい想いをしました。この写真を拝見して思い出しました~。
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ミルクさん、こんにちは。
農船がお家にあったのですね。農船にも名前をつけていたのでしょうか?
置き換わった軽トラックのように、名前はつけないものでしたか?
何百隻とあった農船が、現役で何隻残っているのだろうかと心配になります。
大崎下島の大長には、有形民俗文化財となった船が保存されてはいますが、
瀬戸内海で荷運びとして足として活躍した農船が、気がついたらどの島でも無くなっていた。
ということにならなければ良いなと思っています。
NAWATA
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こんにちは~
いつも興味深く拝見しております。
先日お墓参りに行ってきました。こちらのブログで紹介されていた所、気になっていた所や桟橋界隈とか散策したいと思いましたが、生憎単独ではなく時間もなくゆっくり島を堪能できませんでした。
母を見舞った時に農船について聞いたところ、我が家の農船は名前はなかったのですが、名前のある農船もあったと話していました。
下蒲刈島沖の下黒島を初めて意識して見ました。本当こちらのブログは興味をそそられますし勉強になります。そして考えさせられます。
襤褸・藍のつぎはぎ展も興味があったのですが・・・
物は大事にしたいものですね。再利用出来るものはするように心がけよう!
っと、思う今日この頃です(^_^;)
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ミルクさん、コメントありがとうございます。
そして、農船の疑問について調べていただきまして、ありがとうございました。
上・下両黒島を目の当たりにした時は、その光景にただ驚くだけでした。
見つめていただけるきっかけづくりができ、大変うれしく思います。
先人の知恵や、残した仕事に触れると、
物を大切にする心を忘れてはいけないなと、自戒を込めて思います。
NAWATA